ドイツ
ことばと社会(その1) 【2004年12月19日】
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旧聾唖学校校舎(ベルリン市内)
旧聾唖学校校舎(ベルリン市内)

はじめに:音声言語の社会
 ヨーロッパ社会というのは音声言語の社会だと痛感することが多い。情報伝達の各手段に優先順位をつけるとしたらここでは第一に話された言葉、第二に書かれた文章、第三にあくまで補助手段としての画像・映像という順になるだろう。
 
 約10年前、当地の大学に入った頃、一番苦痛だったのがプレゼンテーションだった。しかし単位をとるには大体一学期に平均2回くらいは聴衆を前にして25分程度のプレゼンテーションをやらねばならない。最初の時は失敗だった。文字文化の世界から来ている筆者としては音声言語は、「書いてあるものを伝達する手段」程度に思っていたので、準備はおこたりなく、すべて大き目の字で書いた原稿として持って行ったのだった。他人のせいにしては申し訳ないがこの準備のときに頭にあったのは校長先生や国会での答弁、作文コンクールでの優秀作品の朗読なとである。


 
 本番では意外に落ち着いていたのだが、その分聴衆の態度は大変気になる。印刷してあるものを読み上げると聴衆はあからさまに退屈しているという態度を見せるし、発音や文法に間違いがあると「なんだ?」という声が聞こえたり、容赦なく修正されるし笑われることもある。
 
 ドイツ人というのは母国語の不正確な使い方に対しては「外国人だから」という思いやりはない1(そもそも弱い相手の立場から見て手加減するというのが日本的な考え方なのだ、おそらく)。学生だから態度が悪いのかとも考えていたが、仕事をするようになってから見ていても日本からの視察団が、書かれた挨拶などを読み上げたりすると、ドイツ側の代表者がいきなり部下と雑談を始めたりするからそうではないらしい。
 
 発表と質疑応答が済むと教授が発表の方法について評価する。「外国語で大変なのはわかるが、これは絶対に必要なのだから何も見なくても30分位話せるような練習をしなくてはならない。」といわれ、「しかし、ドイツ人にとっての英語なんて関西弁と標準語くらいの違いしかないだろう。」と一瞬思いつつ、「ハンガリー人やフィンランド人の例もある」2とがんばることにしたのだった。

 結局、数年かけてわかったのは外国人だからという理由での手加減はないが、規定に則った手続きや就職で差別をうけることはないこと、ここに住むならドイツ人と対等に口頭で(!)議論できるドイツ語力は必要だということだった。「外国人だから」と書いたが、普通にドイツ語を話せるアジア人と話しても平均的なドイツ人は外国人としてよりもそういう外見の誰かとしてしか見ないだろうと思う。また、口頭でというのは、ここの人たちは書くことを時間の無駄だと思っているのではないかと思うからで、こちらが正確に説明しようと思って「書きましょう」というと、その代わりに何度でも口頭で説明させる人が多い。こういうとき別に彼らは意地悪しているのではなくてあなたがドイツ語(2人とも簡単な英語が話せるなら英語でも良い)を話す場合、たぶん相手は外国人と話しているということは忘れているし、あなたのドイツ語がとても下手だったら、「外国人だから下手なんだ」とは思わずに「こいつ何できちんと話せないんだ」と思っている確率のほうが高い。そして「話せないのに書けるはずが無い」というのはここでは暗黙の了解のように思える。

 余談だが、「言葉がちゃんと話せない奴」扱いされるくらいなら、「外人の特権」を享受したいという人は旅行なら全部日本語で通してしまってもいいと思う。もちろん仕事にはならないが旅行位は身振り手振りでできる。切符を買うときだけ、行き先をアルファベットで書ければあとはなんとかなる。私が知っている限りで、この方法は女性が圧倒的に上手いようだ。
 
 そういう土地に住んで気になったことがひとつあった。言葉を話して要求することで普通の人間扱いされる場所で、唖者はどうやって暮しているのだろうと思ったのだ。確かに手話はある。しかし、手話を理解する人はどのくらいいるだろう。私が日本に居たら、筆談とメールで済ましてしまいそうだなという気がするが、ここでは声を出して話せないだけで社会から取り残されてしまった気持ちになるだろうと思う。反面、ドイツにもいろいろな話しかたをする人がいるから、話すことができてもいつも口を観察して理解できるとは限らない。

 かなり未熟な学術的バックグラウンドの発達段階で開かれた120年以上も前のミラノ会議3でも、聾唖教育の中心を口話とすることが決定された。この口話主義派の演説が会議の後まもなく発行された「聾唖教育の歴史」という本に引用されている。
「口話を聾唖者にとっての概念の媒体に、思考の形に。話された言葉が確実、そして内的に結合されてはじめて、個別の音と話された言葉を表す道具としての書き言葉が存在する。書き言葉は独立に存在するものではなく、話された言葉を固定する道具であるということを生徒にも周知させるべきである。」

 耳が聞こえる人間にとってはその通りかもしれないが、聾唖者の立場で考えるならばこの社会の音声言語偏重主義は、聾唖教育に今日まで影響を与え続けることになる。

古地図の聾唖学校
 19世紀初頭の古地図を眺めているとリニエン・シュトラーセ4の聾唖学校という記載が目についた。ベルリン・ミッテ事典5で調べて見ると、ベルリン市には1798年に設立された王立聾唖学校が存在すると記されていた。初代校長で、設立者でもあるエシュケ博士6はライプツィヒの出身で、ベルリンに来てまもなくこの学校を設立したと記載されている。

 1798年といえば、フランス革命が始まって数年経っているとはいえ、ナポレオンとの戦争に敗れて神聖ローマ帝国が崩壊するまでにはまだ数年の時間がある。ヨーロッパの中でもそれほど豊かでもなく、「国家を持つ軍隊」と呼ばれたプロイセンにこのような施設が存在していることが不釣合いな気がした。しかし、これは私の偏見かもしれない。

 最近、用があってリニエンシュトラーセを歩いていたらそのことを思い出した。周囲の建物(19世紀の一般的な賃貸住宅)とは趣の違う18世紀風の建物が気になったので写真をとり、家で調べて見るとこれが旧王立聾唖学校だった(当時は84から85番地、現在は121番地)。昔の地図を今の地図と比べて見ると、番地が変更になっているのだった。しかし疑問が次々に沸いてくる。例の事典によれば、聾唖学校はエシュケが彼の自宅に開設したとなっているが、この建物は彼の自宅にしては大きすぎはしないか。それともエシュケ博士はライプツィヒの裕福な商人一家の出身だったのか。どうも新しい事典というのは要領よくまとまってはいるのだがこういう興味深い部分になるとまったくといってよいほど何も書かれていない。

 ここに「最新版・ベルリン・ポツダム会話ハンドブック」という本がある。話はまた偶然にもリニエンシュトラーセに戻るのだが、ドイツ統一のあと90年代の前半まで、この通りに面した建物や、中庭を突き抜けた奥の建物で古本が大量に、しかも格安で売られていた(ドイツ語ハンガリー語辞典1マルク、カリーニングラード市街地図30ペニヒなど)。私はすっかり病みつきになって、ドイツ語もまだそれほどうまくはなかったのに毎週のように本をかばんに一杯抱えて持ち帰っていた。この「会話ハンドブック」もそのときに購入したもので、値段は3マルクだった。
 
 この会話ハンドブックは「会話」とはいうものの語学とはまったく関係なく、教養ある会話のために話のネタを提供する目的で書かれた本だ。日本の江戸名所図会と和漢三才図会のあいの子のような本といえるだろうか。そういう目的の本なので単なるデータだけでなくいろいろなうんちくが盛り込まれていて、背景や由来の説明についてもなかなか詳しい。なによりも昨今の事典と違って記述が主観的かつ情熱的でしかも良い意味での無駄に溢れていて、「人間に時間があった時代の文章はこういうものかもしれない」と感心させられるほど冗長だ。

聾唖教育のはじまり
 中世から近世にかけての障害者に対するヨーロッパ社会の平均的な考え方はどうだったのか。会話ハンドブックの記述によれば「昔、これらの不幸な人々は神罰をうけた者たちという偏見を受けていた」し、中世のヨーロッパでは聾唖者は「すべての感覚を持つが人ではない存在」とみなされていた。実際の生活面に関係する教会による差別も数多くあり、5世紀には洗礼だけが許されるようになったものの結婚が許されるようになるには11世紀までかかっている。さらに告解ができるようになるのが13世紀、修道僧となるのが許されるまでには16世紀までかかっている。

 おもしろいのは手話の始まりも教会にあるという点だ。教会は中世から近世にかけてさまざまな迫害や差別の原因を生み出したが、同時に今日の福祉の原型となるシステムを作っていった。沈黙の行の最中にコミュニケーションを採る方法として7世紀前後に修道院で手話が発明されたとされている。聾唖者に対する教育に「指文字」と呼ばれた手話の原型が取り入れられたのは、スペインのある領主の家に3人続けて聾者の息子が生まれたためだった(1550年頃)。言葉を解さないものは領地を相続することができないので子の3人の父親が修道僧に手文字による会話の授業を依頼したのがきっかけとなった。この成功によって一家は領地の相続を行うことができ、社会的にも聾者は読み書きができないという偏見を取り除くことに貢献することになった。このように、領主や国王の家庭に障害者が生まれたりしたために障害者のための施設が設置される例はヨーロッパの歴史を通じて数多い。結局、国王や領主の特権も病気や障害を防いではくれないという当たり前の事実の前に福祉制度が作られていったのだった。「〇×王妃の寄付により」というような記述の背景を調べると多くがこのような身内の救済を目的として始まっている。

 ドイツではベルリンの王立聾唖学校、それに障害者団体としてのドイツ・リハビリテーション協会は王族の支援によって設置された機関の一部だ。【佐藤】

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注:
1 そもそもドイツで育った外国人の数が日本の場合と比べて桁違いに多いので、外国人という外見は区別の基準にはなりえない。この社会での『平等』についての考え方は『弱者に対して親切にする』ではなく、同じ権利を与え、その行使のための手段を与えるということである。
2 フィン・ウゴル語族は欧州の言語の大部分が属する印欧語族とはまったく異なる系統の言語
3 ミラノ会議(1880年):国際聾唖教育者会議、20カ国の代表が集まり、聾唖教育を口話法で行うか、手話法で行うかを討論した。
4 リニエン・シュトラーセ(Linienstraße):ミッテ区北部の街区名。近世には都市の外縁部にあたる地区だったため、この近くに社会福祉関係の施設がまとまって設置された。
5 ベルリン・ミッテ区:ミッテは中心、中央で、中央区とでも訳せるだろうか。ベルリン市の1700年頃の市域にほぼ該当する。
6 Ernst Adolf Eschke (1766-1811)、後述(その3参照のこと)


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