2500キロ、自動車の旅

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チェコへ向けて

自動車免許をとって一年。拙い私の運転も、周りに迷惑をかけないくらいには上達した。そこで腕試しを兼ねてチェコへの旅行を思い立った。父はチェコ人で、チェコには親戚もいる。万一のときでも心強い。

一日目

アダック (ADAC)で目的地近くの町までのルートをもらい、山中にあるいとこの別荘を目指した。しかし別荘がある村は、地図には載っていない。近くの町についてから、いとこに電話をして迎えに来てもらうことになっていた。しかし国境を越えたところで問題に気が付いた。なんと私は、いとこの電話番号を忘れてしまったのだ。気付いて母の携帯に電話しても、母の手もとにも番号はない。母はよその街(マイセン)にでかけていて調べることもできない。母も私もあわててしまった。仕方ない。記憶をたよりに山道を進むしかない。私は覚悟を決めた。

どれくらい 走っただろうか。前方に見覚えのある乗馬練習場のサインが見える。運は私を見捨てていなかった。いとこの別荘はその近くだ。

出発してから四時間半。ようやく目的地に辿りついた。母の知り合いは、道に迷い六時間もかかったというから、それに比べれば順調な滑り出しだ。「どう、私の方向感覚は渡り鳥なみでしょ?。」私は、道連れになってくれた恋人にそう言ってみた。

注)ADAC: ドイツ自動車連盟で通常「アダック」と読む。日本のJAFに相当する組織。車両故障に対応してくれるほか、道路地図、旅行ガイドなどの出版事業も行っている。



二日目

ヤノフ村か ら、向かいあってる山のスニエホフ村に向かう。そこに父の別荘がある。ヤノフからスニエホフまで私はチェコの景色を堪能した。しかしやはり昔とは違ってきている。崩れかけていた家がなくなり、車も新しいのを何台か見かける。だんだんチェコも豊かになってきてるのかと感じた。来年にはEUに加盟するのが決まっている。このままだと、国境による差がなくなり、チェコとドイツは区別できなくなるのかしら?。

そう考えながら私達は別荘まで細い山道を通り、次第に人里から離れていった。自然そのままの景色が続く。すると突然鶏が道を横切った。ここは動物が優先なのね・・と私は思い、村に着いたとわかった。

別荘にも着いた。周りは森と野原しかない。することと言えば本を読むことくらいしかない。静かで豊かな時間が過ぎて行く。

三日目

スニエホフで散策を楽しむ。スニエホフの山を歩くと巨大な岩が沢山あるのが分かる。その昔、フス戦争の時には、岩窟の中にフス派の信者が隠れていたそうだ。洞窟の中は真っ暗でじめじめしていた。さらに歩くと、荒城とおぼしき建物にたどり着く。スニエホフの周りには古城が沢山あるが、ほとんど、フス戦争で破壊されてしまっている。この辺りはチェコ人の間ではチェコのパラダイスと呼ばれている。今は何も残っていない片田舎だが、考えてみると歴史的因縁の深い所で、多くの人が、自分の信念のために殉教した所なのだ。

注)フス戦争:1419 - 1436年。ボヘミアの宗教改革者フスが処刑されて後、その信奉者がローマ教会や神聖ローマ帝国の弾圧に対して起こした抵抗運動。背景にはチェコ人による民族運動があった。33年にフス派は分裂、36年に穏健派の主張が入れられ終結。

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母と伯母と一緒に

四日目

スニエホフから一時間半かけてプラハへ移動。プラハ訪問は、私にとって二年ぶりだったが、観光客で賑わう様子は二年前と変わってはいない。しかし父はプラハが新しくなってしまって昔の雰囲気がなくなっていると嘆いている。やはりプラハもゆたかになってきてるようだで、裕福になると街の雰囲気はなくなるというのは、宿命か。トヨタ自動車も近くプラハ近郊に工場を建てるそうだ。世界が小さくなってくるような気がした。

この日は伯母の所に泊まる。彼女は日本にから戻ったばかりだった。日本へはトヨタの招きで行っていたのだが、マリオットホテルへの宿泊費を含め、滞在費用は全て会社持ちだったと言うことだ。

日本から戻った彼女は「日本は物価が安いわねー」と言っていた。日本は物価が高い国とばかり記憶していた私は、伯母の発言に驚いた。日本では本来八千円する人形が、千円で売られていたというのが、その発言の根拠になっていたが、それは特殊な例だろう。伯母の日本滞在は会社が費用を負担してくれたために、彼女は、その他の物価一般を知らずに帰ってきたのだろう。

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オロモウツ

五日目

母がプラハに到着。彼女も旅に合流し皆でアウシュヴィツへ向かうことになった。途中でオロモウツに立ち寄るにした。中世のチェコの司教座は、当初プラハとレゲンスブルグに置かれていたが、それにオロモウツが加わった。そのためかオロモウツは驚くほど教会が多く、五十メートルごとに教会があるように感じた。どの教会はまたきびらかで、全部金で装飾されている。カトリックの権力が偲ばれる。そのきらびやかさといったら、一つの教会でベルリンの負債を帳消しできるのかなーと思ってしまったほどだ。驚いたことに、平日というのに教会の中では今も沢山の人々が祈りを捧げている。ベルリンの教会とは比べものにならない。オロモウツにはまだ敬虔な信者が多いのだ。オロモウツの紋章は街の中心にある塔。やはり金で装飾されていて、信条告白が上から下まで書かれていた。このあまり知られていない街の中に、信仰はまだ輝いていた。二時間近く歩き回り、私達はアウシュビッツヘと街をあとにした。

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“クレマトリア”跡

五、六日目

チェコとポーランドとの国境を越えてアウシュビッツへ向かう。雰囲気が他の街とはまったく違う。私達は「変な気分だなー」と口々に言った。街は何となく暗い感じがしており、変に虫が鳴いている。歩き回ると、線路に足がひっかかる。この道を通って何万人の人間が死んでいったのか。

この夜はスパゲッティの肉を食べられなかった。カトリック修道院の宿坊に泊まったが、私はなかなか寝付くことができなかった。

翌日はアウシュビッツ強制収容所を訪ねた。収容所は修道院のすぐ近くにあり、昨晩食事をしたレストランの手前だった。私たちはガイドを頼むことにしたが、ドイツ語でのガイドは断られた。ドイツ人にガイドをしたい人がいないのかと思ったが、実際にはそうではなく、そのときたまたまいなかっただけのようだ。ガイドは英語になった。

ガイドツアーはアウシュビッツの収容者を見せる映画で始まる。父方はユダヤ人の家系であり、親戚の中にはアウシュビッツで犠牲になってなった人も多い。伯母によると約五十人亡くなっているとのことだった。父の祖父母もここで殺されている。私の彼は映画館で父が涙を出していたのを見たそうだ。祖父母や親類のことを思っていのだろう。

アウシュビッツ・ビルケナウは本で読んでいた通りで、その点ではショックを受けるようなことはなかったが、博物館で女の髪の毛の山を目の当たりにしたときには気持ちが悪くなりそうだった。囚人が撃たれた跡だという黒い壁には千羽鶴も供えられていた。日本人もここで追悼したのだろう。

クレマトリア(焼却場)はナチスによって破壊されていた。敗戦が濃厚になったとき、証拠を消すために爆破させたのだ。廃墟の横には殺された人々を焼いた灰が捨てられたという池がある。その池には今ではカエルが生息し、畔(ほとり)には花も咲いている。灰が肥料となったのか、花はきれいに咲いている。何も知らず池を見つれば、むしろのどかな光景にさえ見える。私はそこに自然の矛盾を感じた。

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旅人:末次桂子さん

ベルリン育ちの女の子。2003-04年度冬学期からハイデルベルク大学法学部に就学を予定。

恋人と家族とともにチェコ、ポーランドの旅に挑戦。

チェコの別荘地、プラハ、ポーランドのアウシュビッツでの思い出をレポート。

●桂子さんに感想をを送る。



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