ベルリン |
ノイエ・ヴァッヒェ【2004年09月10日】 |
ブランデンブルク門からウンター・デン・リンデン通りを東に向かうと、国立オペラの建物の斜め向かいで、ドイツ歴史博物館の手前に、小さな石造りの建物がある。この建物は、ドイツ語で「ノイエ・ヴァッヒェ(Neue Wache)」と呼ばれる。何も文脈を考えずに日本語にすると、「新交番」とも訳せるのだが、建物ができた由来を考えると、「新歩哨詰め所」とでも訳せようか。「歩哨」が難しければ、「衛兵」でもいい。 ノイエ・ヴァッヒェは、19世紀にベルリンで活躍した建築家フリードリヒ・シンケルの初期の作品で、ドイツ古典の重要な建物のひとつに数えられる。シンケルはプロイセン王ヴィルヘルム3世の依頼で、斜め向かいにある皇太子宮殿の護衛兵のための新しい詰め所としてノイエ・ヴァッヒェを設計、建物は1816年から18年の間に建設された。簡素な形状でありながら、支柱を使って重量感を出すやり方は、いかにもシンケルの意匠と思う。 ただ、ノイエ・ヴァッヒェが本来の機能を果たしたのは、1918年まで。第一次世界大戦、ドイツ革命を経てドイツの帝政が崩壊すると、ノイエ・ヴァッヒェはその機能を失ってしまう。その後ノイエ・ヴァッヒェは、ハインリヒ・テセノウの手によって、1930年から31年の間に第一次世界大戦の戦没者顕彰施設に改造される。つまり、ドイツの戦没者を讃える施設となったのだ。現在建物のほぼ中央に見られる天窓は、この時に設計された。 ノイエ・ヴァッヒェも、第二次世界大戦の戦禍を免れることはできなかった。しかし戦後、東ベルリンに位置するノイエ・ヴァッヒェは、旧東独政府の意向でハインツ・マーランによって1957年から60年の間に再建される。そうしてできたのは、「ファシズムと軍国主義の犠牲者のための慰霊施設」だった。旧東独政府にとって、ベルリンの壁がファシズムから国家を防護するための壁であったことを考えると、施設の名称には納得がいく。施設は、非常に政治的な意味を持っていたといえる。 まだ壁のあった時代、旧東独人民軍の衛兵が2人、ノイエ・ヴァッヒェの前に直立不動の状態で立っていた。衛兵の交代時には毎回厳粛な”儀式”が行われ、その度に観光客などが集まって、ちょっとした観光名所になっていた。 そして現在、ノイエ・ヴァッヒェは新しく生まれ変わった。壁が崩壊して東西ドイツが統一されると、ドイツ政府はノイエ・ヴァッヒェを国家色のない、真に戦争と国家独裁によって命を落とした犠牲者を追悼する施設とすることを決定、93年に「戦争と暴力支配の犠牲者のための中央追悼施設」として開館した。 建物入口の両脇に設置された銘文には、こう記されている。
ノイエ・ヴァッヒェは、戦争と暴力支配の犠牲者を思い、追悼する場である わたしたちは、戦争で苦しんだ民族のことを思う わたしたちは、迫害されて、命を失った市民のことを思う わたしたちは、戦没者のことを思う わたしたちは、戦争と戦争の結果によって故郷の地で命を失ったり、 捕虜の最中や土地を追われて逃げる最中に命を失った罪のない人たちのことを思う わたしたちは、数百万人の殺されたユダヤ人たちのことを思う わたしたちは、殺されたシンティ・ロマのことを思う わたしたちは、血筋や同性愛、病い、弱さ故に 殺害されたすべての人たちのことを思う わたしたちは、生きる権利を否定されて殺されたすべての人たちのことを思う わたしたちは、宗教や政治的信念のために 命を落とさなければならなかった人たちのことを思う わたしたちは、暴力支配の犠牲となって、 罪なく亡くなったすべての人たちのことを思う わたしたちは、暴力支配に抵抗して命を犠牲にした 女性たちと男性たちのことを思う わたしたちは、自らの良心を曲げるよりも死を受け入れた すべての人たちを讃える わたしたちは、1945年後の全体主義独裁に抵抗したために、 迫害されて殺害された女性たちと男性たちのことを思う ノイエ・ヴァッヒェは箱形の空洞だが、その中にはケーテ・コルヴィッツ作「亡き息子を抱きながら悲しむ母」の複製拡大像だけが置かれている。犠牲者のことを思う気持ちが、わが子を亡くした母親の悲しみによって象徴されているのだ。コルヴィッツは女性版画家、彫刻家で、1945年にベルリンから戦禍を逃れるために移ったドレスデン近郊で亡くなっている。 現在日本では、小泉首相の靖国神社参拝問題に関連して、無宗教の国立戦没者追悼施設の建設について議論されている。こうした動きの中で、ノイエ・ヴァッヒェは日本の施設のお手本のひとつとして検討されたという。 ノイエ・ヴァッヒェは政治的に利用されながらも、長い年月を経て最終的にはできるだけ政治色、国家色を排した追悼施設にまで変遷してきた。ここで追悼されているのは、民族や国籍を問わないすべての犠牲者だ。つまり、ドイツを敵として戦って命を落とした人たちも追悼されている。 はて、現在の日本社会はこうしたノイエ・ヴァッヒェの中身までを手本とするまでになっているのだろうか。【fm】 宣伝広告/スポンサー
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