ベルリン |
自由の証【2004年11月8日】 |
ベルリンの壁は1989年11月9日に開いたが、その直後に、ドイツを含めたヨーロッパの画家たちのイニシアチブで、東ベルリン側にある壁に絵を描こうという動きが持ち上がった。単なるグラフィティではなく、アートとして28年もの間壁を存続させた政治に一矢を報い、人々が移動の自由を獲得した証にしようとしたのだった。 そのため、壁に描きたいとする画家を募集するための声明文が西ベルリンの情報雑誌に掲載された。すぐにヨーロッパ各地から応募があり、画家たちは東ベルリンの東駅斜め向かいの壁約1.5キロメートルに作品を描きはじめた。 当時は、まだ統一前。壁崩壊後に登場した東独のモドロー政権は、それを見て見ぬふりをして黙認した。 こうして誕生した壁は、「イーストサイドギャラリー」と呼ばれるようになる。統一後、地区一帯の再開発のために壁を取り壊す、取り壊さないと二転三転。そのドタバタ劇のあげく、ベルリン市議会はイーストサイドギャラリーを文化財保護物件とする決議を下した。その結果、壁は簡単に取り壊すことができなくなる。 イーストサイドギャラリーの一画に、日の丸を背景にして左右の壁の間に富士山と五重塔を描いた画がある。描いたのは西ベルリン在住の画家トーマス・クリンゲンシュタインさん。クリンゲンシュタインさんは19歳の時、東ドイツから西ドイツに強制出国させられた。西側で発表された彼の詩集が国家反逆罪に問われたからだ。 西側に出されてしまったクリンゲンシュタインさんは、その後世界各地を放浪した。日本も82年以降定期的に訪れており、日本びいきとなった。 クリンゲンシュタインさんに、壁に作品を描いた作品のモチーフを聞いたことがある。ところが思いもよらず、意外とこだわりのない返事が返ってきた。もし、ベルリンに日本管轄地区があったらどうなるのか想像したかっただけだ、というのだ。故郷である東独に対する特別の思い入れから描いたのではない、という。そして、壁を越えたところに、西ドイツではなく、ドイツを離れた遠い世界を見てほしいのだ、と。 クリンゲンシュタインさんの絵には、壁の前に描かれた白い立て看板に「日本地区への迂回路」と日本語で書かれている。今度は、クリンゲンシュタインさんが迂回路を通って辿り着いた日本地区で見たものについて聞いてみたい。 イーストサイドギャラリーは昼夜雨風に曝されているので、現在傷みがかなりひどいうえ、落書きもされてひどい状態となっている。作品のいくつかはすでに 修復されたが、クリンゲンシュタインさんの作品はまだ修復されていない。【fm】 初出:千葉日報94年2月のエッセーからの抜粋、一部修正 宣伝広告/スポンサー
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