コッファ in ベルリン |
マイエルオットー街 (Meierotto-Straße) 【2004年12月7日】 |
ベルリンに郷愁を感じる人に、思い出の風景を届けようというのがこのコーナー。その趣旨からは少し外れるが、今日は架空の人物に向けてゆかりの場所をお届けしたい。その架空の人物は、蒔岡家の人々、なかでも蒔岡幸子氏にベルリンの風景をお届けしたい。蒔岡家の人々は、谷崎潤一郎の小説『細雪』に登場している。 ヨーロッパでは戦渦が広がり、日本も対米開戦を年内に控えた1941年2月、ベルリンのマイエルオットー街に住むフリーデル・ヘニング嬢から、蘆屋(あしや)の蒔岡家に書簡が届く。マイエルオットー街とは、今なら「マイヤーオットー通り」と訳されているところだろう。蒔岡幸子氏は、手紙のドイツ語翻訳をヘニング夫人(ドイツ人の夫を持つ日本人)に頼んだことがあり、ここでいうヘニング嬢とはその娘。彼女は舞踊研究のために、父親と一緒に戦争の始まったヨーロッパへ旅立っていく。ロシアを通ってドイツに着いたというから、海路ではなくシベリア鉄道経由で旅をしたという設定になっている。戦争が始まっても41年にはまだドイツ人がソ連を通って旅行ができたことがわかる。それは事実に即した設定なのであろう(注)。 小説では、ヘニング嬢の渡欧にあたって、蒔岡幸子氏が、かつての隣人であるシュトルツ一家にあてたプレゼントを彼女に託したことになっている。ベルリンに着いた彼女であったが、ハンブルクのシュトルツ一家にプレゼントを届けるのに、郵送にするのははばかられ、父の友人に託して届けられたことになっている。蒔岡家に届いた書簡は、プレゼントがシュトルツ一家に無事に届いたということを報告するものとなっているが、シュトルツ夫人からの受け取った旨を書いた絵はがきを同封しているなど、ドイツ人を父親に持った律儀さのようなものが感じられる設定となっている。 ヘニング嬢からの手紙には、戦争が始まってもベルリンには各種のエンターテーメントが催され、食糧も豊富にあるとも書かれているが、郵便はそろそろ覚束なくなり始めていたということだろうか。このような小説のディテールは、谷崎が新聞などから得た情報をもとに書かれているのだろうか。当時の日本で同盟国ドイツの状況が、どのように報道されていたか、あるいは私信等を通じてどのような情報が、小説家のもとに届いていたかを垣間みることができ、興味深い。 ヘニング嬢は、ベルリンで63歳になる婦人のアパートに間借りすることになる。とても広いアパートで、老婦人は淋しさを紛らわすのに同居人を求めたことになっているが、その家がこのマイエルオットー街にあったという設定だ。 マイエルオットー街は、ベルリンのブティック街としても名高いファザーネン通り (Fassanenstraße) がファザーネン広場 (Fassanenplatz) と交わるところから、地下鉄1/9号線のシュピーヒェルンシュトラーセ駅 (Spiechernstraße) まで続く短い通り。児童公園などもあり、西ベルリンの繁華街であるクーダムに近いながらも静かな界隈。20世紀の前半はさらに静かだったろう。しかしヴィルマースドルフ地区にあるこの通り、地理学者のJohann Heinrich Ludiwig Meierotto (1742-1800) にちなんで1888年に命名されたものだが、特に有名な通りではない。谷崎は、どこからこの通りの名前を知ったのだろうか。 谷崎の筆は、蒔岡幸子氏に、いずれはヨーロッパの地を踏み、機会があれば娘の悦子にその地でピアノの修行をさせたいと思っていると書かせている。第二次大戦を無事に過ごし、戦後の混乱が終わった後には、彼女の渡欧は実現したのであろうか。架空の話のその後に思いを馳せても始まらないが、『細雪』を読むと一家が実在し、その子孫がまだ日本に生きているような錯覚を覚える。しかし蒔岡幸子氏も、今生きていれば100歳を超えており、他界していると考えた方が自然だろう。娘の悦子くらいは老境を迎えたピアニストして存命中だろうか。音楽修行に行くことができたのならば、ヘニング嬢のつてをたどって「マイエルオットー街」の老婦人のもとに下宿していたかもしれない。 小説は、結婚のために幸子の妹、雪子が上京する1941年4月26日で終わっている。 「幸子」さんや「悦子」さんがいらっしゃいましたら bmk までメールでご連絡下さい。大きなサイズのデジタル画像を差し上げます。【長嶋】 注: 欧州開戦後のヘニング嬢の渡欧について、TK氏の忠告に従って、補足しておく。ヘニング嬢の日本出発がいつであるかは、作品の中では確認できなかったが、母親のヘニング夫人が蒔岡家に、夫と娘が渡欧することになったと連絡してきたのが1940年11月中旬。そしてヘニング嬢の手紙に記されたベルリン到着が1941年1月5日。したがって、彼女が日本を発ったのは1940年11月中旬以降、おそらく12月ではないかと思われる。 1939年9月1日にドイツ軍がホーランドに侵攻したことで、第二次世界大戦が開始されるが、開戦前、同年8月23日には「独ソ不可侵条約」が締結されており、ヘニング嬢が大陸を横断した1940年末から1941年初めもドイツとソ連は表面上の友好関係を保っている。したがって両国は交戦状態には入っておらず、この政治状況下ではドイツ人がソ連領を通過できるのは「当然」と言える。独ソ戦が開始されるのは1941年6月22日のこと。 それでもヘニング夫人も心配したように日本から見れば「戦争中の欧羅巴」であり、それは小説を読む現代の読者にも同じだろう。そこを安全に旅行できたということについては、具体的な報告からの「発見」であり、必ずしも「当然」ではない。誤解を防ぐために、ヨーロッパでの戦争がまだドイツとソ連の直接対峙でなかったということをここに補足しておきたい。 なお谷崎潤一郎によって翻訳調で書かれたヘニング嬢からの手紙には、その旅行は「航海」と書かれている。翻訳調ゆえの曖昧さかと思ったが、交戦地域を避け、ソ連領通過後バルト海を渡る海路でドイツに着いたのかとも考えられる。どのようなルートが存在していたのかも興味深いところだ。(2004年12月10日、長嶋) 参考文献: ・谷崎潤一郎『細雪(上中下)』(新潮文庫、1955年)(特に中および下巻) ・Lais, Sylvia / Mende, Hans-Jürgen (hrsg.), Lexikon Berliner Straßennammen. Berlin 2003.(ラーイス/メンデ(編)『ベルリン街路名事典』(Haude & Spener、2003年)) ・木村靖二(編)『ドイツ史(新版世界各国史13)』(山川出版社、2001年) 広告/スポンサー |
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