忘れられた最初の犠牲者

 1961年8月13日、東西ベルリンの国境が封鎖された。厳重な警戒体制の下で、国境線に鉄条網が張り巡らされ、東西の往来が遮断される。これがベルリンの壁のはじまりだ。当時の書類によると、実際に東独政府が「壁」といえる巨大設備の建設を決定したのは、それから数日後だという。その後、実際に壁という巨大な国境設備が完成するまで、数年の月日を要した。

 陸の孤島のように、西ベルリンを取り囲むベルリンの壁では、これまで何人が犠牲になったのであろう。集計した機関によって多少の誤差がある。たとえば西ベルリンのチェックポイント・チャーリー壁博物館は、その数を239人と記録している。この中には、射殺された者ばかりでなく、逃亡する途中で何らかの形で死亡した者も含まれている。

 ベルリンの壁で犠牲になった人物で、一番有名なのはペーター・フェヒターだ。1962年8月17日、当時18歳のフェヒターは同僚とともに壁を抜けて西ベルリンへ逃れようとした。彼は東側の鉄条網を乗り越えたところで発見され、止まれ、と命じられる。しかし、命令を無視して走り抜けようとしたことから、国境兵士が発砲。フェヒターは西側の壁にまで辿り着くが、壁を乗り越えることができないまま、撃たれて倒れてしまった。彼は「助けてくれ!」と、50分間も壁の下で助けを求め続けた、という。

 西ベルリンの警官には、手の出しようがない。その間、西側の壁の周辺には野次馬がたくさん集まり、警官に「何とかしろ!」と怒鳴りつけるような罵声も発せられた。警官はやむなくフェヒターに救急箱を投げ付ける。しかし、役に立つはずがない。フェヒターの声は一段と小さくなる。警官はようやく身の危険を冒して、ひん死のフェヒターを救い出す。しかし、フェヒターはもう息を吹き返すことはなかった。

 この一連のドラマは、写真として記録が残っている(以下の写真参照。写真:チェックポイント・チャーリー壁博物館)。そしてその劇的さ故に、事件は東独社会主義体制の残虐性と西ベルリン警官の命を賭けた勇気を象徴するシンボルとなるのだ。フェヒターは最初に射殺された犠牲者であるかのように英雄扱いされ、フェヒター物語は西側の宣伝材料として語り続けられる。




 しかし、ベルリンの壁で最初に射殺された犠牲者は、ペーター・フェヒターではない。当時24歳のギュンター・リトフィーンだ。リトフィーンはオーダーメードの洋裁師として、東ベルリンに住みながらも西ベルリンで働いていた。すでに西ベルリンに移るつもりでアパートを借り、国境が封鎖される前夜も、夜遅くまで弟のユルゲンと一緒に西ベルリンのアパートで引っ越しの準備をしていた。東ベルリンの自宅に戻ったのは、深夜の1時頃だったという。

 しかし、リトフィーンの将来の人生設計は、一夜にして破壊されてしまう。東西ベルリンの国境が封鎖され、西ベルリンに行く術を失った。彼はすぐに、どこかに抜け出す所がないか、毎日のように国境線を内々に探し歩いていたようだ、という。事件当日、リトフィーンはSバーン(都市鉄道)のレールター駅近くで、シュプレー河支流の運河を国境線沿いに探索していた。その時、運悪く鉄道の鉄橋を警備していた交通警察官に発見され、止まるよう命じられる。慌てたリトフィーンは、咄嗟に運河に飛び込み、西側に泳いで逃れようとした。警察官はまず威嚇射撃をするが、諦めようとしないことから、ねらい撃ち。リトフィーンのからだは運河に浮いたまま、動かなくなってしまう。

 1961年8月24日、つまり国境封鎖から11日後のことであった。

 3時間後、リトフィーンの亡骸は東ベルリンの消防隊によって運河から引き上げられた(以下の写真参照。写真:チェックポイント・チャーリー壁博物館)。その様子は、西ベルリン側からも観察された。東側でも、西側の報道によって事件は市民の間に広がっていた。そのため、東独側は急遽、リトフィーンを学のない奴、同性愛者、ひもなどと称して、ありもしない中傷を行い、射殺行為を擁護するキャンペーンを開始する。



 西ベルリンでは1周忌の1962年8月24日、市当局の手によってリトフィーンが泳いで辿り着こうとした運河沿いのフランツ・リスト・ウーファーに、ギュンター・リトフィーンを追悼する石碑が設置された。除幕したのは、当時の市長ヴィリー・ブラントである。その後数年間、リトフィーンの命日には石碑の前で簡単な追悼式が行われていた、という。

 石碑のあるレールター駅周辺は、東西統一後、政府機能の首都移転に伴う大規模な再開発の対象となった。そのため、90年代には至るところが工事現場と化す。そうした工事の中、石碑は96年に突如として跡形もなく消失してしまうのだ。

 それに気付いた弟のユルゲンさんは、すぐに石碑の行方を探し出す。しかし、市当局や政治家は一切耳を傾けてくれない。ユルゲンさんはなす術もなく、途方に暮れる日々を過ごしていた。

 石碑が見つかったのは、それから約4年後の夏である。それは全くの偶然で、ユルゲンさんが東ベルリンで行われるギュンター・リトフィーン通りの改名式に、西ベルリンのチェックポイント・チャーリー壁博物館の職員を招待したからだ。博物館の職員は、それでようやく博物館の物置き場に放置されたままの石碑を思い出す。

 ユルゲンさんは石碑を見て、唖然とした、という。石碑の一部はかなり損傷がひどく、青い苔が生え放題、石碑に刻まれた文字もほとんど解読できない状態だった。石碑は96年に工事業者によって、博物館に持ち込まれていた。工事が終わり次第、元の場所に戻します、と添え状が添えてあったという。

 ユルゲンさんはすぐに、市当局に対して石碑を修復するよう求めた。石碑が市の所有物であるからだ。しかし市側の反応は冷たく、石碑の存在には全く関心を 示さなかった。ユルゲンさんはそれならと、自分で石碑を修復すると決心し、スポンサーを探し出す。運良く、東ベルリンの石工業者が自己負担で修復すると申し出てくれた。しかし、石碑を設置する場所がない。市当局と交渉しても、埒があかない。全く動いてくれないのだ。ユルゲンさんはいろいろと尋ね歩きながら、元あった場所から800メートルほど離れた敷地に場所を見つけた。こうして、石碑は2001年1月、ギュンターの64歳の誕生日に新しい場所に設置された。インヴァリーデン通り国境検問所のあったすぐ脇のところだ。

 ユルゲンさんは、大きな憤りを抱かざるを得なかった。なぜ、兄ギュンターのことは関心が持たれず、忘れられてしまっているのだろう。どうしてなんだ。ユルゲンさんは壁を巡る歴史は都合のいいように脚色され、真実が伝わっていないのではないだろうか、と不信を抱く。そして有志とともに、壁の歴史の真実を伝えるために立ち上がる決心をした。そのため、兄ギュンターが射殺された地点から1キロメートルほど離れたところにある旧国境監視塔をギュンター・リトフィーン記念館として、壁の真実を伝える機関にする計画を立てた。

 しかし、監視塔の使用権を得るため、ユルゲンさんは再び戦わなければならなかった。監視塔周辺に新しく集合住宅が建設されることから、監視塔が撤去されてしまう心配があったのだ。ユルゲンさんは監視塔にホームレスを住わせるなどして監視塔が解体されてしまうのを妨害し、政治家などの支援を得て40年間の監視塔の使用権を獲得した。しかし、国や市は一銭たりとも金銭的な援助をしようとしてくれない。ユルゲンさんは有志とともに資金を集め、兄ギュンターの死から42年後の2003年8月24日、ギュンター・リトフィーン記念館をオープンさせた。

 ギュンター/ユルゲンの父アルブレヒトは、1945年に東ベルリンでキリスト教民主同盟(CDU)を結党した一人。二人の兄弟もCDUの青年部で積極的に活動した。そのため、家族は東独当局から常に監視される生活を送っていた。特にユルゲンさんにとって、1961年は悪夢のような年である。5月に父を病気で亡くし、8月に兄を失うまで、4ヶ月の間に祖母と妻の母を含め、家族4人を失った。兄ギュンターの死後は、当局の監視が一層厳しくなる。友人や知人は家族から離れていき、ユルゲンさん一家は孤立した生活を送らなければならなかった。もちろん、監視は壁が崩壊するまで続いたのだ。

 これだけ辛い境遇の下で虐待を受けながら、ユルゲンさんのパワーはいまだに衰えることを知らない。特に壁のことになると、ユルゲンさんは話が止まらず、口調がより早くなる。ユルゲンさんのパワーは、どこからくるのだろうか。ユルゲンさんは、壁の暴虐性と歴史の真実をありのまま後続の世代に伝え続けなければならないという信念さ、と笑って答えてくれた。

 今も、愛犬ハンナと一緒に、記念館の前に座って番をしているユルゲンさんの姿が想い出される。【fm】

記念館の場所:Kieler Strasse 2, Berlin-Mitte
開館時間:12時−18時(月−木)、14時−18時(日)
【2004年6月9日】

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bmk Berlin
フリーランスのリサーチャー、翻訳者、通訳者
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