黒いトマト

 ぼくが小さい時に食べたトマトには、臭みがあった。ぼくは、トマトにソースをかけて食べるのが大好きであった。それに、熱々のご飯さえあればよかった。トマトの臭みとソースの独特の味。それが口の中で混合する。それが何ともいえず、快感だった。

 ただ、この快感は夏にしか味わえない特権だった。臭みのある、うまいトマトは夏にしか手に入らなかったからだ。当時のトマトは形が悪く、はちきれんばかりにデコボコしていた。しかし、太陽の光をたくさん浴びて、新鮮さをそのまま形に現わしていた。ピチピチというこどばがぴったり当てはまるような大きなトマトだった。冬には、温室栽培されたトマトも多少出回っていたと記憶する。しかしそれは、まずくて食べられなかった。ぼくが小さい時、トマトは夏に食べるものだったのだ。

 現在、トマトはいつでも食べられる。冬でもそれなりに食べられるようになった。しかしぼくにとって、現在のトマトは小さい時に食べたトマトではない。今のトマトは、確かにトマトの形をしている。しかし、夏に出ているトマトでも色が薄赤色で、水分は十分にあるものの、身が柔らかくてトマト特有の臭みがない。太陽の光を十分に吸収しないまま、早く摘み取ったり、温室栽培したものだからと想像する。だから現在、ぼくは小粒のプチトマトを好んで食べている。プチトマトは味が凝縮されていて、それはそれでトマトらしさがあるからだ。

 有機栽培されたトマトが出始めた時は、ああ、これは昔のトマトの味だと思った。しかし、有機栽培されたトマトが普及するにつれ、トマトの味は薄くなっていった。需要が増えると、それを満たすために、遠方から輸送してこなければならないからだろう。トマトはその分、太陽エネルギーをまだ十分に吸収していない状態で早摘みされる。だから、味が薄いのだ。

 現在、ベルリンのスーパーマーケットに並んでいる普通のトマトは、スペイン産やイタリア産だ。南国産だから、太陽エネルギーをたくさん吸い取っているだろうと思われるが、そうではない。遠路はるばる運ばれている分、かなり早摘みされているのだと思う。太陽の恵みが感じられない。それでも、ドイツで食べるトマトのほうがまだおいしい。一番トマトの味がしないのは、日本のトマトではないだろうか。帰国した時に食べるトマトは、ぼくにとってはトマトではない。これはトマトに限らず、日本の野菜やくだもののすべてにいえることだと思う。日本のものは見た目にはきれいで、形が整っている。しかし、自然本来の味を失ってしまっている。ただ水分を摂るためだけに生物を食べているのではないか、と錯覚してしまうほどだ。

 ぼくが東ベルリンに暮らしていた時のことだ。当時はスーパーマーケットに行っても、くだものはほとんど手に入らなかった。棚に並んでいたのは、りんごくらい。たまに、キューバ産のバナナやオレンジが並んでいた。でも、バナナもオレンジも青い色をしていて、カチンカチンに硬かった。りんごはテニスボールにもならない小さなもので、虫に食われた跡があったり、傷みがあった。はじめは、こんもの食べられるかと思ったが、それがとんでもない話だった。そのまま洗って皮ごとガブッと噛み付くと、これがたいへんうまかった。身は柔らかくなってしまっているのだが、自然そのものの味がした。特に、秋に食べるりんごが最高だった。しかし秋が深まるにつれ、傷みが激しくなり、りんごはそのうちに店頭から消えてしまった。

 夏になると、市場や道ばたで(運良くその場に出くわせばの話だが)、すいかやさくらんぼ、いちごを売っていることがあった。でもそれは運次第で、こまめに探さない限り、手に入らないことのほうが多かった。


物が不足していた時代。
野菜がくじ引きの賞品にもなっていた。


 りんご以外で手に入りやすかったのは、トマトだった。当時の東ドイツのトマトは小さく、きれいな整った形をしていた。タマゴほどの大きさだったろうか。赤いというよりは、赤黒いというか、黒い色をしているのが特徴だった。この黒いトマトをはじめてほおばった時のことは、今だに忘れられない。何と、ぼくが日本で小さい時に食べたあのトマト本来の味、忘れかけていたトマト特有の臭みが、このトマトにはあったのだ。見た目には黒い色をしていて、身が柔らかそうで、お世辞にも新鮮そうには見えないトマト。しかし、そのトマトが自然の味を残していたのだ。

 ぼくは黒いトマトを買い求めては、そのまま口にほおばっていた。くだもの代わりだったといってもいい。しかしそれも、毎年秋口までに限られていた。トマトは夏を過ぎると、より一層柔らかくなり、傷んだものも出回りはじめた。そのうち、店頭から跡形もなく姿を消してしまうのだった。次にトマトを食べるには、翌年の6月頃まで待たねばならなかった。トマトは、トマトの季節にしか買い求めることができなかったのだ。旧東ドイツに温室栽培がなかったわけではない。工場からの排熱を利用して、温室ハウスでトマトを栽培しているところもあった。しかし、そこで収穫されたトマトは西ドイツへの輸出向けであって、国内に出回ることはなかった。温室栽培は、外貨稼ぎのために行われていたということだ。

 ベルリンの壁が崩壊すると、東側にも西側のものが怒濤のごとく出回りはじめた。同時に、ぼくの黒いトマトはもう二度と目にすることができなくなった。

 現在ベルリンでは、東西どこにいても同じものが手に入る。トマトは、春夏秋冬いつでも買い求めることができる。もちろん、りんごもいつでも食べられるようになった。どんなものでもいつでも手に入るという点では、豊かになったのは間違いない。

 しかしその反面、失ったものはないだろうか。

 日本では、ぼくが小さい時に食べた臭いトマトはもう手に入らない。同じように、東独時代に食べた黒いトマトはもうなくなってしまった。ここベルリンでは、近郊のヴェルダー(旧東側)で穫れた新鮮な野菜やくだものが、市場などに行けば手に入る。スーパーマーケットでも、旧東側で穫れた昔ながらの小粒のりんごが店頭に並んでいる。これら旧東側で穫れた野菜やくだものには、まだ自然の香りが残されている。見た目にもきれいになったし、食欲もそそられる。でも、違うんだよなあ。昔の自然の濃い味は、もうないんだ。

 東側に住んでいた市民は、壁が崩壊した当初、目が暗んだかのように西側から入ってきた商品を買いあさっていた。しかし、時が経つにつれて、地元で生産された商品に戻ってきているという。

 ぼくの黒いトマトに対する想いは、単なるノスタルギーなのだろうか。壁が崩壊する前の当時の東側を懐かしむ気持ちを、ドイツ語のオスト=東にちなんで、オスタルギーといわれている。でもぼくには、壁の崩壊とともに大事なものを失ってしまったような気がしてならない。その失われたものとは、日本が戦後の発展とともに失ってきたものと同じものだ。昔のように壁があった時代のほうがよかった、というつもりはない。でも、トマトに関していえば、黒いトマトがあった時のほうが、ぼくには豊かであった。【fm】

追記)文章の一部は、読売新聞欧州版1993年3月5日のリレーエッセイに掲載された筆者のエッセイから流用しました。
【2004年7月28日】