最後の犠牲者(1)

 1989年2月7日付けの西ベルリンの地方紙に、小さな記事が掲載された。それによると、5日から6日にかけた深夜に男性1人が東西ベルリンの壁を乗り越えて西側に逃げようとしたが、失敗したという。その際、10発の銃声が聞こえ、男性は地面に倒れ、その後兵士に連れ去られた、ということだ。これは、西ベルリン側の目撃者の証言である。記事には、東独外務省は武器の使用を否認した、とある。

 その後、同じ月の21日付けのベルリン新聞(東ベルリンの地方紙)に次のような死亡広告が出た。




 死亡広告には、こう書かれていた。
「私たちには、信じられません。まだ、こんなに若かったのに。ある痛ましい出来事によって亡くなったクリス・グェフロイのことを、私たちは深く、心から悲しんでいます」

 この死亡広告が東ベルリンの新聞に掲載されたことは、西ベルリンの新聞でも報道された。さらに西側のメディアでは、23日に行われた埋葬式の写真まで公開されている。しかし東ベルリンでは、この死亡広告だけがクリス・グェフロイの死を語っていた。この死亡広告が東側の新聞に掲載されたこと自体、それも「痛ましい出来事」という表現が使われたことは、当時としては全く異例なことであった。

 クリス・グェフロイ、当時20歳。グェフロイは、ベルリンの壁で射殺された最後の犠牲者である。死亡広告には、2月6日死亡とある。グェフロイは同じ20歳のクリスティアン・ガウディンとともにトレプトウ運河沿いの壁を乗り越えて西ベルリンに逃れようとした。当初、西側の人権擁護団体はガウディンも射殺されたとしていた。しかしガウディンは、足に銃弾を受けて逮捕されたが、九死に一生を得ていた。

 二人は東側のコンクリート壁を乗り越えて、西側の金網の壁に向かっているところを発見された。国境警備隊の兵士は、静止命令を出した後にまず威嚇射撃をし、その後二人に向かって発砲した模様だ。目撃者は「止まれ、伏せろ!」と号令が発せられた直後に、まず2発の銃声を聞いており、その後照明弾が撃たれ、さらに銃声が続いたと証言している。

 グェフロイの家族が西側の人権擁護団体に送った手紙によると、グェフロイは7発の銃弾を受け、即死した模様だという。家族は事件のあった2日後に当局に呼び出され、身元確認をして遺体を引き取ったということだ。

 統一後、クリス・グェフロイはベルリンの壁で射殺された最後の犠牲者として大きな注目を浴びるようになる。雑誌の中には、検死の時に撮影された写真を入手したと大々的に前宣伝して、誌上で遺体の写真をあからさまに公開したものもあった。マスメディアにとっては、過去の非人道的な行為を追求するというよりは、ベルリンの壁に絡んだスキャンダラスな写真さえあればよかったのだ。死者の尊厳や権利も、どうでもよかったといえる。

 統一後、社会主義体制下で行われた残虐行為は裁かれなくてはならない。しかし一体、誰が誰を裁くのか。裁判の根底となる法律は何か。まず最初に訴追されて裁判となったのは、クリス・グェフロイ射殺事件である。4人の元兵士が法廷の前に立たされた。発砲命令を下した上官と実際に発砲した兵士3人である。【2004年9月18日】【fm】