プロローグ

ベルリンの壁址
壁があったことを記録する
路面に埋め込まれた銅板
 ベルリンの壁が開いた翌朝のことだ。「フリードリヒ通り駅の国境検問所前は、たくさんの人でそれはたいへなことになっているわよ」と、ベルリンの友人から電話が入った。西ベルリンに向かう東独市民が、怒濤の如くに国境検問所に殺到していたのだ。ぼくはその時、東独ライプツィヒ近くの化学工場の町、ロイナというところにいた。そのため、壁が開いた直後のベルリンを自分の目で体験することができなかった。それから1週間ほどして訪れたベルリンは、もうそれまでのベルリンではなかった。西ベルリンの中心、クーダム通りは人、人、人。たいへんな人込みの中で偶然出会った知人は、もう大はしゃぎ。顔は、開放感と好奇心に満ち溢れていた。
 あれからもう14年以上が経過した。あっという間だった。壁が開いた時、これから世の中はどう変わっていくのだろうかとわくわくする気持ちと、どうなってしまうのだろうかという不安が入り交じっていた。現在、統一ベルリンは善かれ悪しかれ日常化してきている。統一後のベルリンの変化は凄まじい。たくさんの問題も抱えている。しかし、社会はノーマル化してきているというべきだ。特に、東西を分断していた壁がなくなったという意味で。
 しかし、現在でも絶対に消えることのない“壁”がある。それは、壁のどちら側にいたかという過去の事実である。この事実は、東西分割を体験せざるを得なかった人々が死に絶えるまで、決して消えることのない現実ではないだろうか。この現実は、統一が日常化した社会においても、溝川の表面に泡が立つように溝の底からぶくぶく噴き上がってくる。
 ぼくは20代後半に仕事で東独に渡り、東西統一の日まで約5年半壁の東側で生活した。今から思うと、わずか5年半のことでしかない。でも、ぼくは壁の東側にいた人間なのだ。これは、イデオロギーがどうのこうのという問題ではない。単に、壁が崩壊するまで東側で生活していたということだ。しかし現在、この事実はたいへんな重みを持っている。
 誰かと東西ドイツについて話したりすると、話し相手が壁のどちら側にいたのか、ぼくにはすぐにわかってしまう。話し相手がドイツ人であろうが、日本人であろうが、問題ではない。西側社会以外で生活したことがあるか、どうかがポイントなのだ。西側社会でしか暮らしたことがなければ、体制の異なる東独社会の生活にいかに無知で、いかに偏見を持っているかがわかってくる。それに対して、西独の人でも仕事か何かで東側で生活したことがあれば、話はつうかあと通じてしまうのだ。
 当時、東側には物資がなかった。必要最低限の物さえなかったといっていい。たとえばバナナでさえ、スーパーマーケットで見かけたのは年に数回だけ。それも夏だけだ。オレンジも同じ。野菜は晩秋になると、傷みがひどく、冬になると生野菜はほとんど店頭に並ばなかった。「スーパーの前に長い行列ができていたら、何が何でもすぐに並びなさい。何があるのか、尋ねる必要はないからね。必ず普段ないものがあるよ」といわれたものだ。当時は、何をするにも並んで待たなければならなかった時代。長い行列のことをSozialistische Wartegemeinschaft(社会主義待合集団とでも訳そうか)と呼んでいた。
 当時はまた、おおっぴらに体制を批判できない世の中であった。人々は体制に対する不満を政治ウイットの形で表現していた。物のないことを皮肉ったものに、こんな小話があった。
「東独の宇宙飛行士がソ連の宇宙船ではじめて月に着陸しました。宇宙飛行士は喜びと興奮の余り、次ぎのような電報を祖国に送ってしまったのです。
S G E H E H
S A D M G L
K G K O K E
F U E U W Z H
さてさて、これを解読しますると、
Sehr geehrter Herr Erich Honecker,
(親愛なるエーリヒ・ホーネッカー閣下)
Sind auf den Mond gelandet
(月に着陸しました)
Kein Gemse, kein Obst, keine Ersatzteile
(野菜も、果物も、予備品もありません)
Fhlen uns wie zu Hause
(祖国にいるような思いであります)
と、なりまする」
 物がないことは、決して悪いことではなかった。むしろ、いいことだと思えるようになっていた。たとえばトマトは、季節の時にしか手に入らなかった。温室栽培されたものが流通していなかったからだ。しかし、季節にしか収穫されないトマトは昔ながらのトマト臭さがあって、そのうまさはいまだに忘れることができない。物がないということは、同時に物を大切にするということでもあった。物のないことを補うには、人との絆を強くして置かなければならなかった。人と人が助け合わなくては、生きていけない時代であったのだ。
 こういうことは、実際に体験してみなければわからない。物が溢れている西側社会では、物のないことの良さなど実感しようがないではないか。これは、単なる1例に過ぎない。このように東側には、西側社会から見ているだけでは理解できないことがたくさんあった。だから、東側にいたのか、いなかったのかという違いは、未だに見えない壁があるかのように、実に重い現実としてのしかかっている。
 そこで、本シリーズではベルリンの壁や東独を巡る話を連載しながら、この見えない壁の存在について触れていきたいと思う。【2004年2月25日】 【fm】

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bmk Berlin
フリーランスのリサーチャー、翻訳者、通訳者
bmkberlin.com