1961年8月13日

チェックポイントチャーリー
1987年8月13日の東西ベルリン国境検問所、チェックポイントチャーリー(西ベルリン側から)
 クリスティーネさんはお姉さんの結婚式に出席するため、西ドイツの都市レヴァークーゼンに来ていた。

 彼女のご両親は上3人の子どもとともに、1949年に西ドイツに移住していた。お父さんが東ドイツ当局に逮捕される危険があったからだ。まず、お父さんが西側に逃れ、お母さんが3人の子どもを連れてその後を追った。一番末っ子のクリスティーネさんだけはまだ3歳と小さかったので、養母に預けられて東側に残ることになった。その養母も当局の弾圧を恐れてそれまで住んでいた町トアガウ(ソ連軍とアメリカ軍がドイツに進攻して対面した、エルベ川沿いの町)を離れ、近くの東ドイツの商業都市ライプツィヒに移り住んでいた。

 お姉さんの結婚式は、1961年8月12日に行われた。翌朝13日は、家族みんなが遅くまで寝入っていた。一番早く起きたのはクリスティーネさんだった。彼女がラジオのスイッチを入れると、ニュースが流れてきた。何ということだ。彼女は自分の耳を疑った。東西ドイツ国境が封鎖され、ベルリンでは国境沿いにレンガで壁が積み上げられている。クリスティーネさんは、すぐに身仕度をしてライプツィヒに帰らなければならないと思った。さもなければ、もうライプツィヒに戻ることはできない、と直感したという。

 クリスティーネさんはお父さんの承諾を得て、一人で汽車に乗って東側に向かった。しかし東西ドイツの国境では、東ドイツの兵士の取り調べを受けるため、汽車から降りなければならなかった。ライプツィヒからは養母が呼び出されて、事情聴取も行われた。彼女が15歳と小さいうえ、出国ビザに記載されている期限前に再入国しようとしたので、不審に思われなかった。クリスティーネさんは、ようやく東ドイツに再入国することが認められた。

 クリスティーネさんは、どうして東ドイツに戻ったのであろうか。養母に対する義理や愛情は、全く感じていなかった。とにかく、ライプツィヒに帰りたかっただけだった、と振り返る。
 彼女はそれまでに2回、夏休みを利用して西ドイツの両親を訪ねていた。しかし2回ともに、両親の元を逃げ出すようにライプツィヒに帰っている。クリスティーネさんは、小さいながらも西側社会がお金中心の社会になっているのを感じていた。それがいやだったというのだ。お金中心の社会にいては、貧しい自分には自由がない。自分のやりたい勉強もスポーツもできないのではないか、と感じていたという。もしあの時西ドイツに残っていたとしたら、彼女が東ドイツで受けたような高等教育は受けることができなかったであろう、と回想する。クリスティーネさんは現在、自分で自分の自由を選択したことに満足している。

 これが、クリスティーネさんの1961年8月13日、ベルリンの壁ができた日であった。それから28年、クリスティーネさんはもう西ドイツの地に足を踏み入れることはなかった。

 クリスティーネさんは、東ドイツの体制をいつも批判的に見ていた。しかし同時に、彼女の目には反体制派といわれた人々は、西側社会のスターのようにも写っていた。「彼等は何をしようが、西側社会によって守られていたでしょう。でも、自分のような無名な一般市民は、反体制的な行動をとったところで、一体誰が守ってくれたというの」
 クリスティーネさんの表情は、東ドイツで生きてきたという自負心に満ち溢れていた。【fm】
(初出:千葉日報1993年12月08日、今回一部修正、加筆)
【2004年4月7日】

※この文章はフレームを使ってご覧下さい。

宣伝広告/スポンサー
bmk Berlin
フリーランスのリサーチャー、翻訳者、通訳者
bmkberlin.com