ベルリン |
レーニン像はどこへ行った?【2004年7月4日】 |
灯台下暗し 前回はレーニン像のあった場所、国連広場(旧レーニン広場)まで足を運んだが、そこにはレーニン像はおろか、その痕跡さえも見出すことができず、手ぶらで戻ってきた。探索も、再び机の上に戻ってきたわけだ。そこで今回は、手がかりを提供してくれそうな資料を二つばかり紹介したい。一つは、ベルリンの通り、広場について調べようと新たに購入したもの。もう一点は、本棚に眠っていたものだ。
ラーイス/メンデ(編)『ベルリン街路名事典』(Haude & Spener、2003年)29.80ユーロ 2.Bosetzky, Horst / Eik, Jan, Das Berlin Lexikon. Mnchen 2002. ボゼツキー/アイク『ベルリン事典』(DTV、2002年) 1.は、現ベルリンのおよそ10250におよぶ通り、歴史の中で消えて行ったおよそ3750の通りの名称を簡単に説明した事典で、街路名の由来や変遷を調べることができる。早速「国連広場(旧レーニン広場)」について調べてみよう。この広場が「国連広場(Platz der Vereinten Nationen)」と呼ばれるようになったのは、1992年3月13日からということはわかるが、なぜ「国連」なのかについては説明がない。それ以前は「レーニン広場(Leninplatz)」だったわけだが、そう改称されたのは、東ドイツ時代の1950年のこと。現在のようなレイアウトになったのは1969年からのことで、H. ヘンゼルマンのプランによるもの。この改称以前は「ランズベルガー広場(Landsberger Platz)」(1864−1950年)と呼ばれていたということがわかる。 2.は、ボゼツキー氏とアイク氏(本名:H. アイケルマン)の共著だが、ボゼツキー氏は、1938年ベルリン生まれの大学教授(社会学)にして推理小説作家(他のジャンルでも著作あり)。アイク氏は、1940年ベルリン生まれ、情報技術を学び大学を卒業したが、東ドイツ時代からの推理小説作家と、両者とも変わった経歴の持ち主。DTV出版は、日本でいえば文庫、新書といったペーパーバックの書籍を編集、出版する書肆だが、この本は、もともとは1998年に別の出版社から上梓されている。内容はというと、ベルリンに関する「トリビア」が多数収録されていて、ベルリンマニアにはお勧めの一冊。 一例を紹介しよう。クーダム通りと交差するBleibtreustrae(ブライプトロイシュトラーセ)は、ベルリン人の間では、Bleistreustrae(ブライシュトロイシュトラーセ)と呼ばれた。理由は、この通りで1970年にあったドイツ人とイラン人のギャングの抗争。両者が撃ち合いをして、鉛弾(ブライクーゲル)が散乱し(シュトロイエン)たという駄洒落。本来の「ブライプトロイシュトラーセ」は、カール・ブライプトロイ(1859−1928年)に由来するもの。彼は著述により敵を追求したことはあっても、飛び道具は使わなかった云々、といった具合だ。 さてこの本によりLeninの項を調べてみると、広場のレーニン像は1992年に巨費をかけて広場から撤去された、とある。遠回りになってしまったが、レーニン像が撤去された年がわかった。やはり「レーニン広場」が「国連広場」に改称された年のことだ。 撤去の年がわかれば、次の手がかりとして新聞記事を探すことはそれほど難しいことではない。【長嶋】 宣伝広告/スポンサー
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