ベルリン
テロ・トポグラフィー(テロの地勢図)【2004年7月19日】


 20世紀最大の再開発と謳われたポツダム広場と、東西分裂の象徴として有名であったチェック・ポイント・チャーリー(現在壁博物館があるところ)とのちょうど中ほど、ニーダーキルヒナー通りとヴィルヘルム通りの交わるところには、およそ200mに渡って東西ベルリンを隔てていた壁がまだ残っている。壁が開いた当時の激しい打毀しを想い起こさせるハンマー痕とそこから顔を覗かせている鉄骨が、壁の両側に住んでいたベルリンの人々の壁に対する激しい憎しみを物語っているようだ。
 チェック・ポイント・チャーリーからニーダーキルヒナー通りを進んでいくと、ベルリンの壁の残骸が見えてくる。その壁の後ろには無造作に土を盛り上げられた丘がある。雑草が茂り、何の手入れも施されていないその丘は、首都の中心にあって一種異様な形相を見せている。ところが、バスを連ねた観光客が列を成しており、ちょっと見たところでは放置された丘にはそぐわない光景である。よく見ると、壁のすぐ裏側にはちょっとした掘り込みがあり、パネルが並んでいる。ここが「テロ・トポグラフィー」の一角である。

 ニーダーキルヒナー通りは、戦前までプリンツ・アルブレヒト通りと呼ばれていた。その8番地には、古くから美術専門学校があったが、ナチ時代になると国家秘密警察(いわゆるゲシュタポ)と親衛隊(SS)、国家保安本部の中央本部が設置された。これらの組織は、ナチ思想と相容れない人々に対して国家権限に基づいた容赦ない排斥行動を実施していた実働部隊の本部である。ナチ支配下の12年間を通じて、全国各地で逮捕や勾留といった「合法的な」手段によって、多くの反ナチ活動家やユダヤ人、シンティ・ロマ、同性愛者、戦争捕虜が、これら実働部隊の被害者となった。しかし、彼らの「合法性」は表向きだけであって、実際には逮捕理由も明確ではなく、勾留中に激しい拷問が加えられるなどの不当なものであった。「反体制」あるいは「非アーリア」のレッテルを貼られただけで、該当者の基本的人権は無視されることになった。拷問によって命を落とした者も少なくない。
 第二次大戦中の激しい空爆によって崩壊した建物は、その後の東西ベルリンの国境際に位置することになった。建物自身は西ベルリンに、プリンツ・アルブレヒト通りは東ベルリンに振り分けられた。西ベルリンの中心的な繁華街はクーダム通りやカント通りに移ってしまい、この辺りの地域は捨て置かれるままとなってしまっていた。

 1987年にベルリン市制750周年の一環として、「テロ・トポグラフィー」と題したユルク・シュタイナーJürg Steinerの設計による小さな展示場が設置された。ゲシュタポ本部の遺構の上にプレハブ平屋建てのちょっとした建物を建て、ゲシュタポや親衛隊、帝国保安本部による国家テロの歴史を、1985年の発掘事業で開削された地下牢の遺構の壁にかけたパネルで紹介した非常に簡単なものであった。 当初は半年間だけの一時的な催し物として考えられていた「テロ・トポグラフィー」の展示であったが、予想外の反響から1987年末には展示の無期限延長が決定された。展示場も「よりマシなものが出来るまではそのままにしておく」ことに決められたのである。
 その後、市民を中心とした活発な議論に基づいて、非独立財団法人「テロ・トポグラフィー」が1992年1月に設立された。財団の目的は、当該地に適切な記念館を企画建造し、運営していくこととされた。また、現代史に関係のある各地の博物館にてナチによる国家テロをテーマとした特別展示を企画運営することも財団の重要な活動となった。メンバーには、州文相をトップに連邦内相、外相などの政界、歴史家や政治学者などの学界をはじめ、ユダヤ人評議会やドイツ・シンティ・ロマ連盟、各地のナチ強制収容所記念博物館などの関連団体が名を連ねた。
ツムトーア案モデル
 1993年1月には、連邦政府主催の「テロ・トポグラフィー」記念館設計のコンペが開かれた。論争の末に、スイスの建築家ペーター・ツムトーアPeter Zumthorの設計案が一等を獲得し、記念館の形状が決定した。記念館は、「素材と構造、そして働き以外には、それ自身として何も主張しない純粋な覆い」 (Bericht. April 1995 bis März 1997, S.11) という理念に基づいて設計されていた。鉄筋コンクリートの支柱とガラスを基調とし、それに木造の床を組み合わせた形の建築物になるはずであった。長さ125m、奥行き17m、高さ20mの巨大な三階建ての記念館は、一階が大きな展示ホール、二階、三階が特別会議場と資料閲覧室、そして職員の事務室・研究室として考えられていた。総床面積は3200平米に上り、展示ホールは1000平米ほどになる予定であった。
 1995年5月8日の敗戦50周年記念日に立地のすぐ近くにあるベルリン州議員会館の本会議場で表象的な建設開始が祝われた。当初の報道ではすべてが順風に見えた。「テロ・トポグラフィー」財団の建設理念があまり考慮されていなかったということも忘却の彼方であった。ツムトーアは著名な建築家であり、彼の新しい作品に対する世界の注目も充分であった。

 実際には、1995年末から1996年初頭にかけてと1996年10−11月の二度にわたって財政難によって建設計画がストップするという事態になってしまっていた。財政難を理由に建設計画を放棄しようとした連邦およびベルリン州に対して、テロ・トポグラフィーの建設を望む市民の多くがデモに参加して、建設続行の意志を表明した。建設危機の具体的な全容は、まだ認識されていなかった。
 市民運動と増え続ける展示場来訪者に背中を押されるような形で、建設の続行が決定された。1997年、展示の10周年記念式が無事に執り行われたのち、簡易展示場が取り壊され、同時にツムトーアプロジェクトの工事が開始された。有名になりつつあったプロジェクトの財政難を受けて、ドイツ建設業中央連盟は、1997年9月から1998年3月まで、全国からの研修プロジェクトを組んで、基礎工事の援助と工事期間中の暫定展示開設工事を援助した。このとき作られた暫定展示場が、現在も見られる壁際の展示である。
 2000年までに竣工予定であった工事は、しかしながら全く進展を見なかった。一見して単純な設計のツムトーアプランは、実際には非常に高度な建築技術を要し、そのために莫大な予算が必要となることが明らかとなったのである。2000年9月に算出された費用総額の見積もりは、当初の予算4500万マルクの二倍、9000万マルクに跳ね上がった。見積り額の倍増と折からの経済不況に煽られる形で、建設計画はストップしてしまう。
 その後2004年6月末まで、建設工事は議論を沸騰させこそすれ、一工程として進まなかった。

 2004年6月末、ベルリン州および連邦政府は、テロ・トポグラフィーに関する最終決定を下した。計画変更である。当初用意されていた予算4500万マルクのうち3000万マルク(1500万ユーロ)が 既に消費されてしまっていた。建物を支える構造物となる三つの階段部分は完成していた。でも、そこから先が進まない。計画を変更するよりほかに可能性は見出せなかった。この財政難の時に、完成までに必要とされる3000万ユーロを捻出する術はなかった。かと言ってテロ・トポグラフィーの計画をそのまま放置しておくわけにもいかないという意志が、計画変更への政府の思い腰を動かしたのである。
 新しくコンペを行なうことが決議され、その方針が確認されることになった。7月9日には、テロ・トポグラフィーの隣にある民俗学展示を中心とした博物館「マルティン・グロピウス・バウ」のホールでシンポジウムが行なわれ、300人ほどの関係者・市民の参加のもと、新しいテロ・トポグラフィーの展望に向けて積極的な討論が行なわれた。そこで確認されたコンペの概要は次の通りである。

基本方針:
  • テロ・トポグラフィー記念館の建築は、建築家のための建築にあらず。利用者である財団の趣旨および構想を充分に消化し、それを体現する設計でなければならず、場に相応しいものでなければならない。財団の構想は、分散型を是とし、加害の歴史を充分に想起させるものでなければならないとしている。用途としては、常設展のほかに特別展示、図書や資料の所蔵、国際交流、研究員を含む職員の事務・研究が挙げられており、それらの要件を満たす必要がある。
  • 著名な建築家の名声拡大のために利用されてはならない。むしろ新進の建築家の登龍門として位置づけるべきである。
  • 予算内での実現性を明確に算出できる設計のみを審査する。
  • 建築家は、設計から建設の各段階において充分に財団とコンタクトを取り、状況判断および意志の統一に配慮すること。


 コンペ開催の期日と、具体的な条件はまだ明らかになっていない。明らかになり次第、追加したいと思う。【tk】

参照:www.topographie.de

つづく

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