ドイツ
ことばと社会(その2)【2004年12月19日】

ザムエル・ハイニッケ
 ドイツでの聾唖教育の先駆者として知られているのはザクセン出身のザムエル・ハイニッケ7である。両親は比較的裕福な自作農だった。学校での成績が優秀だったため、牧師と教師が彼を大学に行かせることを提案したが、農場を継ぐことを当然と考えていた父親はこれを拒否する。少年期には権威主義的な父親に対して反抗することが多かったと伝えられている。ハイニッケは両親が用意した縁談を嫌がって家を飛び出し、ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト二世の近衛兵になった。この間彼は独学で音楽を学びさらに熱心に読書した。近衛兵といっても、給与レベルは低く、何ヶ月間も給与が支払われないことあったらしい。芸は実を助けるというとおり、ハイニッケの生活を支えたのは趣味ではじめた音楽と読み書きの教師としての収入だった。

 彼のところに通ってくる生徒のなかには耳の聞こえない子供がいた。ハイニッケは1692年にスイスの医師、ヨハネス・アマンが書いた音声言語による聾唖教育法の本に従って授業を試行錯誤的にすすめていたが1756年には7年戦争が勃発する。これで兵士をやめ教師に徹するという彼の願いは破られることになる。ザクセン王国はまもなくプロイセン王国に降伏し、彼自身は捕虜として囚われの身となった。そうこうするうちに今度は兵力の足りなくなってきたプロイセンの軍隊に徴兵されるといううわさが聞こえてきたため宿舎を脱走、イエナ(現:テューリンゲン州)に行き、大学で哲学、数学、自然科学を学ぶ。
 
 まもなくヨハンナ・クラハト8と結婚、1758年には子連れでハンブルクへ転居した。知人の紹介でハンブルク市内のいくつかの家庭で子供たちに算数、読み書き、外国語、音楽を教えることになる。
 
エッペンドルフ時代
 1769年、ハンブルク近郊エッペンドルフ(現ハンブルク市内)村の教会管理人職が空席となり、ハイニッケはこの仕事を引き受けることになった。小さな村の教会なので管理人の仕事はオルガン奏者、酒場の運営、村の学校の校長も兼ねることを意味した。

 ここでハイニッケは粉挽き職人の弟で、やはり耳が聞こえない少年を生徒として受け持つことになる。この少年に彼は文字だけを教えた。1773年、少年は教会の堅信礼を書面によって受けることができた。

 最初は一人だった聴覚障害の生徒は1774年には5人に増えていた。最初の生徒には読み書きだけを教えたが、ハイニッケは彼らが社会で生活してゆくには話された言葉を学ぶ必要があるという結論に達した。

 ハイニッケは教会管理人用の住宅で生徒たちと一緒に生活しながら言葉を教えていった。彼らに対して言葉と音を教える作業は大変時間のかかる作業だったが、生徒の一人、ロシア有数の資産家であるフィーティングホッフ男爵の娘、ドロテア9は言葉の感覚に優れた子供で早い進歩を見せた。彼女の教育の成功によってザムエルの教授法は広く知られるようになり、彼はこの体験を本にまとめて出版することになる。

ザムエル・ハイニッケの教授法
 この時代の聾唖教育における教授法は教会の教理問答をモデルにしていたために非常に硬直したもので、言葉と文字の関係を体験させることなしに難しいテキストをただ丸暗記させたり、どうせ言葉を発することはできないのだからとアルファベットを個別に発生する練習ばかりを延々と繰り返す調教のようなものだった。

 ハイニッケは聾唖教育の専門家としてではなく、一般の子供たちに教える中で聾唖の子供たちと接触するようになっていったから、このような教育方法にはたして意味があるのか疑問を持ったに違いない。彼の授業では音節や単語の認識、簡単な文章を理解することが目標だった。この方法は聾唖者の子供たちに対してだけでなく、彼が校長を務めるエッペンドルフの小学校の生徒たちに読み書きを教えるのにも応用され大きな成果をあげている。
 
 いうまでもないことだが、アルファベットそれぞれには漢字のような意味はないから、これが並んだものが何かを意味するコードであるということを実際のものや絵と対比させることによって少しずつ教えて行くのである。山や川という漢字と実際の山と川の関係を視覚的に覚えさせることはそれほど困難なことではないような気がするが、E I(ドイツ語で「卵」)という二つの記号と卵を見た子供はこれをいったいなんだと思っただろう。そして、疑問に思ったとしても彼らが質問する手段はない。
  
 ハイニッケは子供たちにできるだけ簡単な文字から教えていった。最初にエルやエスといった比較的簡単な形の小文字、次にそれに似た文字、そして最後に大文字といった具合である。ドイツでは当時、煩雑で覚えにくい亀の甲文字と呼ばれる文字が印刷物に使われていたがハイニッケは聾唖者のために私たちもローマ字として知っている、ラテン・アルファベットの教科書を自ら編集して使用したのだった。

 音を覚えさせる方法もユニークなものだった。ハイニッケは母音をすべての声の源としてはじめに教えたが、自分で発する音の変化を聞き取ることができない子供たちに感覚的な体験をさせるため、彼は味覚を利用することにした。イの音は酢の味と、オの音は砂糖水と組み合わせて覚えさせるという具合である。

 基本的な音を覚えると、単語を学習する段階に進む。概念を説明するためには絵や手話が補助手段として活用されていた。ハイニッケは音声言語を習得することを教育の目標としたため、彼の学校では文字や手話はあくまでも記録や表現の補強のための二次的なものとして捉えられていた。

音がなくても考えられますか

 ふだん、読み方を知らない漢字が出てきても平気で読み流すのが癖になっている私としてはアルファベット文明圏の人間の文字に対する感覚というのはわかりにくい。南ドイツ出身の妻に質問してみた。
「日本人の場合、道路にたとえば『危険』という看板が立っていたら『き・け・ん』と読む前に『あぶない』と思っているし、『鬱陶しい』という字なんか視覚に差し掛かった時点でもう「うっとう」しいけど、ドイツ人はまず、『Gefährlich』を『ゲフェーアリッヒ』と読んでいるのかな。」
「読んでる。」
「文字のロゴとかも、シンボルとしてじゃなく読んでるの。」
「うーん。やっぱり読んでると思う。」
「もちろん、慣れているからだと思うけど、日本語はさっと流して読んでも内容は割合正確に理解できる。アルファベットではそれはできないのかな。」
「ちょっと、その本貸してくれる。」「...」「少なくとも私は文章として読まないとわからない。」
「文章としてというのは、テキストを頭のなかで音読しているということかな。」
「そう。」
 ここまで話して、以前近所にあった「ヘーゲル」という名前の喫茶店においてあったヘーゲル全集をめくっていたら偶然開いたページに「言葉に置き換え、音に出して初めて考えることになる」と書いてあったのを思い出した。
 
 しかし、考えて見れば日本語や中国語の世界でも幼児の段階で言葉を音として覚えてから文字と結び付けているのであって、文字から覚えたわけではないのはもちろんだ。
 
 ハイニッケのもとで文字を学んだ子供たちは、このプロセスを逆にたどってゆくのである。彼らは論理を構成する要素である単語を一連の文字の組み合わせとして視覚的に学び、これに(自分には聞こえない)音を結び付けて行くことになる。

社会の偏見とも戦う
 これほど大変なことであっても、ハイニッケが聴覚障害のある子供たちに話すことを教えなくてはならないと痛感したのは、「はじめに」の部分で書いたように、社会がすべての人間が音声言語を話すことを前提としているからである。聾唖者は聴者と外見的に違うところがあるわけではないので社会は彼らの障害を忘れがちであり、結果として聾唖者独自の生活形態や文化を発展させることを認めてこなかった。後に、聾唖教育機関が発展し、聾唖者がある程度の規模の集団を作るようになると聾唖者の手話コミュニティを作ろうという動きもでてくるが、ハイニッケの時代にはこのような状況にはまだはるかに遠く、まず聾唖者が社会の要求する条件の中で生き延びる手段を与えることが優先されたのだった。この時代のドイツでは言葉を話す人間だけが考える能力を持つと本気で信じられていた。

 しかし、聾唖者のための社会は期待できないにせよ、せめて彼らに社会に適応するための手段を与えたいというハイニッケの事業すら、無理解な社会からさまざまな妨害を受ける。特に一部の教会関係者は、神が与えた罰を取り去る不届き者として、ハイニッケを非難した。最も強硬な妨害者はよりにもよってエッペンドルフ村の牧師だった、グラーナウ10だった。この人物の場合、宗教的背景よりも、ハイニッケの態度が気に入らないとか、彼の職を親戚に紹介するつもりでいたのを領主の息子の家庭教師だったハイニッケにとられてしまったという僻みが妨害に走らせたといわれている。そしてこのような動機というのは最もたちが悪いもので、本質と関係ないだけに説得のしようもないし相手の性格も執拗なのが常だ。近所の悪童たちも耳が聞こえないハイニッケの生徒を闇討ちしたりしていたという。

 幸い、グラーナウの上司にあたるゲーツェ11は気骨のある人物で、『ルカによる福音書』には、イエスが聾唖者を治療する場面がでてくるではないかと言って12、聾唖の子供たちに堅信礼を受けさせることを許可してくれたのだった。

 子供たちのスポンサーになる人物も現われ始める。1775年にはハイニッケが以前、息子の家庭教師を務めていたシンメルマン伯爵13が一人の生徒の生活費を、ハンブルク市政府が同市出身の生徒の生活費を支払うことになった。同じ年、最初の妻、ヨハンナと死別する。翌年には生徒の数は7人となって教会の仕事を兼ねるのが困難になったため、教会の職を辞め、教師に専念することになる。

 1778年には当時20才のアンナ・モーリン14と結婚する。彼女の兄弟2人は聾唖者であり、ハイニッケの学校で教育を受けていたのが縁であった。この年、彼の身辺は忙しく、最初の聾唖教育に関する著書を刊行した後、ザクセン選帝侯の招きに応じて学校ごとライプツィヒに引っ越す。

ライプツィヒ聾唖学校
 ハイニッケの一家とともに9人の生徒がライプツィヒに移った。ハイニッケは選帝侯が提供した資金で「唖者およびその他の言語障害者のための選帝侯立学校」15を設立する。ハンブルクでの妨害の数々から開放されたハイニッケは口話法による聾唖教育法を確立するための環境に落ち着くことができた。
  
 彼の教育方法の重点は音声言語による生活を可能にすることであり、授業も主に通常の音声言語によって行われていた。
 
 ハイニッケは同じ時期にフランスのド・レペ16によって確立された手話による聾唖者教育を邪道であるとして、時には個人攻撃とも取れる調子で退けた。その頑なさの背景には当時のドイツにおける思想の潮流がある。彼が交友した人物にはヘルダー17(『言葉は人間自身の性格を体現する』)やヴィルヘルム・フォン・フンボルト18(『言葉が真の人間を作り出す』)らがいる。彼は自分の方針をこのように説明している:『言葉を通じて聾唖者を真の人間に形 成する』と。しかし、もしかすると周辺からの中傷や攻撃に対して自分の方法の正当性を主張するハンブルクでの日々がが彼を不必要に攻撃的にしてしまったのかもしれない。

 生徒にとっては口話法による学習は数年間という時間が言葉を発する練習のためだけに費やされてしまうという結果につながる。このため、ハイニッケの学校で子供たちが学ぶことは最低限必要なもの19にとどまった。この点で手話法による聾唖教育の利点は無視することができない。手話は非常に短い時間で習得でき、残りの時間は知識の習得に利用できるのだから。
 
 ハイニッケの学校に生徒が通う期間は長くて4年、平均すると2、3年程度だった。生徒たちはここを去るときにはふつうに会話をする能力を身につけることもまれではなかったが、その間、通常の学習では数年分の遅れが生じることにもなったのだった。

 彼の学校における口話法の成功が外面的には華々しかったためにハイニッケの方法のなかで最も目立つ部分だけが注目されてしまい、19世紀後半に至って充分な根拠なしに口話法優勢が確立してしまう原因となった。しかし、ここでいう成功は、「話せない人間を、話せるようにする」という悪く言えばサーカス的成功でしかない。

 ザムエル・ハイニッケは1790年4月29日にこの世を去った。
 
 のち校長の職は妻のアンナが継ぐことになる。彼女はライプツィヒの聾唖学校で働くこと50年以上、うち38年間をドイツ最初の女性の聾唖学校長として過ごした。退職の直前にはザクセン国王(ザクセンは王国に昇格)およびライプツィヒ市から勲章を授与されている。

 なお、ライプツィヒの聾唖学校でもハイニッケの死後は硬直的な口話法は変更を加えられ、手話にも重点を置いた混合法が採用された。【佐藤】




7 Samuel Heinicke(1727-1790)、ザムエルの方法は単純化され、現在では音声言語のみによる聾唖教育を「ドイツ法」と呼ぶことになっている。
8 Johanna Maria Kracht (?-1775):5人の子が生まれ、うち4人が成人する。
9 Dorothea von Vietinghoff (1761-1839)
10 Johann Daniel Granau(1722-1793)
11 Johann Merchior Geoze (1717-1786)
12 Lukas 7、18-23およびMarkus7、31-37
13 Heinrich Carl Schimmelmann (1724-1782):相場師、武器・奴隷商人で後デンマーク国王により伯爵に叙せられる。
14 Anna Catharina Elisabeth Morin (1757-1840、旧姓Kluth、Morinは死別した最初の夫の姓)
15 唖者およびその他の言語障害者のための選帝侯立学校(Chursächsisches Institut für Stumme undandere mit Sprachgebrechen behafteten Personen )
16 Charles Michel Abbé l'Epée (1712-1789)
17 Johann Gottfried von Herder (1744-1803)
18 Wilhelm von Humboldt (1767-1835)
19 生活に役立つ知識よりも、当時の社会の構成員となるために必要な知識という意味で生徒たちが学んだのは聖書だった。

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bmk Berlin
フリーランスのリサーチャー、翻訳者、通訳者
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