ドイツ
ことばと社会(その3)【2004年12月19日】

エルンスト・アドルフ・エシュケ
 エシュケ20はザムエル・ハイニッケの娘婿だった。義理の父のもとで実地の経験を積み、ベルリンにやってきた彼は1788年、まずライプツィヒ通りに私設の聾唖学校を設立する。後にこの学校は、フリードリヒ大王の后、エリーザベト21の支援を受け、彼女が住むシェーンハウゼン村22に移転する。エリーザベトは敬虔かつ教養のある女性として知られ、おもに宗教や社会福祉に関する14冊の本を出版している。

 1798年、聾唖学校は前年に世を去ったエリーザベトの遺産の一部を使ってリニエン・シュトラーセに現存する新校舎に移転する。

 エシュケは当初、ザムエルの教えを守っていたが、後に自らの経験をもとに口話法と手話法の混合による聾唖教育を実践する。学校では教師が前に立って、最初は5つの母音アエイオウ(ヨーロッパではこの順番)を順番にゆっくりと発音し、生徒が口の形をまねていった。そして同時に相手の口の形から相手の話していることも理解できるように訓練が進む。会話がうまくなると聾唖者が話しているとは誰も気がつかないくらいだったということだ。
 
 ここでは手話も重要な地位を占めていた。まず、基本的な概念の説明、それに学習のための基本用語としては手話が用いられる。この学校では口話法は外の社会とのコミュニケーションのためのものとして捉えられていた。エシュケの学校で行われていた混合教育は1980年前後からドイツの聾唖教育で主流となっているバイリンガル・アプローチと原理的に同じものである。ハイニッケの厳格な訓練に比べて、エシュケの採った方法は現在の教育に近いとされている。学校創立以来この学校では脱落者はひとりも出していない。さらに職業に結びつけるという意味でもこの学校は成功を収めている。

 プロイセン王国内の聾唖学校教員はすべてこの学校で訓練を受けているため、ミラノ会議までの約百年間混合法による教育が行われることになる。

1830年代の聾唖学校
 グラスホフ博士23が校長を務めていた1830年代には校長1人に教師が5名、生徒の数は70名で6クラスに分けられていた。創立者エルンスト・エシュケの息子は医者だったが、彼もこの学校の校医のような役目を務めている。
 
 この聾唖学校が対象としていた生徒の入学年齢は7歳から15歳の間だった。これは7歳以下では教育よりも身辺の世話の比重が高くなりすぎること、また15歳以上の場合には教育に4年から6年かかるため、職業教育への移行が決定的に遅れてしまうためである。定員が需要を満たすことができないため、学校への受入は申し込み順ということになる。生徒のうち10人から15人に対しては王室が費用を負担し、残りの生徒は授業料の免除を受けていた。国費で養育される生徒は主に貧困家庭もしくは孤児だったが、校長には15人まで受け入れる裁量権が与えられていた。費用としては200ターラー24が支給され、住居、授業料、食事および寄宿監督費用が賄われた。これ以外に王立学校としての運営費としては年間5000ターラーが国庫から支出され、ほかに寄贈財産が14000ターラーあった。

 学校には休憩や運動のために校庭が付属している。校外活動として男子は将来の職業生活への準備のため週に2回の割合で遠足または工場見学を行い、女子生徒には家事労働を習得する機会が与えられた。また、社会の偏見を打破し、学校の活動について知らせるため、毎週火曜日の10時から12時までの時間帯は一般市民が学校を見学する機会をもうけた。この意味でエシュケや彼の後継者たちは、自分たちが同時に社会変革の先駆となることを自覚していたのである。

 当時としては恵まれた環境が用意されていたとはいえ、社会全体の需要を満たすにはほど遠い状態だった。1834年頃、プロイセン王国には約2400人の聾唖者(ただし知的障害を持つ聾唖者はここに含まない)がいたが、このうち聾唖学校で教育をうけることができたのはわずか220名だった。
 
 ルートヴィヒ・ハーバーマス25はエシュケトが特に期待をかけて育てた生徒の一人で、彼自身が勉学のための資金を提供している。1803年からは、彼自身がこの学校の教師となり、聾唖者の生徒だけでなく、聾唖学校の教師のための講習会での講師も務めた。続いて、やはりエシュケの生徒であったダニエル・ゼンス26とカール・ヴィルケ27も教師となり、とくにヴィルケは少年期を生徒として、その後は54年間を教師として一生をこの学校で過ごしたのだった。彼はその長い教師生活の体験から聾唖教育に関する数多くの本を執筆している。

 エルンストの後をついで二代目の校長となったルートヴィヒ・グラスホフは、エシュケ自身がザムエル・ハイニッケの娘と結婚したようにエシュケの娘と結婚している。彼は、聾唖学校校長としてだけでなく、聾唖者のコミュニティーをベルリン郊外、シェーンハウゼンに建設したことでも知られている。

聾唖教育のその後
 エシュケのもとでは多くの聾唖者の教師が育ったが、口話法がヨーロッパ全体で徐々に優勢を占めるようになり、ドイツの聾唖教育においては1880年以降、ほとんどすべてが音声言語による教育に切り替わる。同時に聾唖者が教師となる道は絶たれたのであった。手話がふたたび聾唖者の教育で重要な役割を占めるようになるのはミラノ会議の100年後、1980年代からである。長い啓蒙運動が実を結び、ようやく手話が聾唖者のことばとして認知されるようになったのだった。ドイツ基本法には、障害者の権利を補償する明文規定があり、これを根拠として制定された障害者同権法28は手話を聾唖者の公用語として認めている。近い将来には手話を公共サービスの利用の際にも利用できる体制を整備することが予定されている。

 なお、エルンスト・アドルフ・エシュケの名は、ベルリン州立聾唖学校の名前となっている29。【佐藤】


注:
20 Ernst Adolf Eschke (1766-1811)
21 Elisabeth Christine von Braunschweig-Bevern, Königin von Preußen (1715-1797)、文化事業や福祉事業に熱心だった。墓所はベルリン聖堂内
22 Schönhausen、現ベルリン市内パンコウ地区
23 Ludwig Graßhoff
24 ターラーは、1871年にドイツ帝国の通貨としてマルクが導入される前の通貨単位で1ターラーは30グロッシェン。1823年頃の物価は、1シェッフェル(54.96リットル)の小麦が1ターラー21グロッシェン、ライ麦は1ターラー4グロッシェン、ジャガイモ8グロッシェン、1ポンド(約468グラム)3.5グロッシェン、チーズ1ポンド4グロッシェン、土地の価格は生産力により異なるが1モルゲン(2552平方メートル)9から100ターラーとなっている。
25 Ludwig Habermaß (1783-1826) 、聾唖者として教職に就いたドイツで最初の人物である。
26 Daniel Heinrich Senß (1800-1868)
27 Karl Heinrich Wilke(1800-1876)、聾唖学校に続き、ベルリンの芸術アカデミーでデ素描と油絵を学ぶ。1820年から絵画と小学校クラスの補助教員になり、数年後に正規の教員となり、1874年に退職するまでベルリン聾唖学校に奉職した。2人の娘があり(2人とも聴者)、彼の長女マリーは聾唖学校の工芸の教師となる。
28 Behindertengleichstellungsgesetz、BGG
29 Ernst-Adolf-Eschke Schule für Gehörlose、 http://www.eaeschule.de


主要参考文献

(1) E. Walther、Geschichte des Taubstummen-Bildungswesens、Bielefeld、1882
(2) Lexikon Berlin Mitte
(3) Neuestes Conversations-Handbuch für Berlin und Potsdam, 1834、(復刻版1979年)
(4) Iris Groschek、"Samuel Heinicke in Hamburg" in: Auskunft. Mitteilungsblatt Hamburger Bibliotheken 18. Jahrgang (1998) Heft 4、345~359ページ
(5) Samuel Heinicke、Über Taubstumme, und über das kurfürstl. Institut zu Leipzig,  solche  Unglückliche sprechen lehren、in: Deutsches Museum 1781、2.Bd.


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bmk Berlin
フリーランスのリサーチャー、翻訳者、通訳者
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